「最近の大学生の学力が低い」という話をよく聞く

確かにW大K大という有名校であっても、案外学力が低いことに驚かされる。大学に入るのもAO入試だったり、推薦だったりするためなのかはわからないが、正しい漢字が書けない、読めない、英語のスペルが正しくない、数学の基礎ができていないなどである。遡って考えると、中高生の学力レベルが低くなっている、さらに中学生なのに分数の計算ができない。簡単な漢字が読めない子供が増えているように思う。これは全国学力テストの平均値が低くなっていることでも明らかになっている。

 しかし、教師の指導力が下がっているからだという気はさらさらにない。なぜなら昔以上に学校の教員は指導がされていて、初任者研修から始まって、機会あるごとに研修が行われている。日々の教師は忙しく、学習活動のほかに部活の指導、生活指導に進路指導、研修会の他に夏休みも学校に出て子供の補習に追われているのが実態だ。子供の質は保護者の高学歴化を考えると昔よりもはるかによくなっている。

では何が変わったかといえば、学校教育体制が1970年代から劇的に変化したように思える。70年代前半、当時の文部省は「主任制」という制度を持ち込んで教員の分断を図った。

当時、学校組織は校内の問題は職員会の中で話し合いが行われていた。教員の身分も校長を除く教員は全て同格で校内のあらゆる問題が話し合われていた。学校ごとに共有されることは異なっていても、教師集団という強い絆で結ばれていた。

現在の学校はどうか。教員は主幹をはじめ、細かく身分が分けられ、さらに半分ほどの正規雇用以外の講師がいる。職員会は月に1回程度、各部からの担当主任からの報告だけで終わる。ここには講師は加わることはない。

さらに昔と異なるのは教員の研修の数だ。月に数回、地域ごとに設けられた強制参加の研修会や、自主研修会とやらに参加することが義務付けられている。これは全てそのうち声がかかるだろう管理職へのステップになっている。管理職が予定されている主幹教員はさらに月に数回午後からの研修があるので、自分の授業を割いて出ていく。そして晴れて管理職になるのだが、副校長になると、業務は子どもの教育とは直接無関係の仕事に悩殺される。できない子供がいても昔のように子供を残して指導することはできなくなっている。

 結果、今の子供の学力格差は目を覆いたくなるほど開いているのではないかと思う。教育の質を高めるのはそれほど困難なことではないと思う。教員が子供に向き合う時間を増やすことが学力向上になると考える。職制をかつてのように戻すことで校内がもっと透明になり、教員も授業に専念できる。主任手当を返上した拠出金はクラブ活動をお願いする社会教育の指導に振り分ければ、きっと充実するだろうと思う。しかし、教育行政にあたる人はそんなことは知っているだろうと思う。知っているけれどやらない。それは格差を縮めることをあえて望まないからだと思う。